ラストライブじゃなかった後楽園球場
ピンク・レディー、1981年3月31日 後楽園球場の解散コンサート
1980年9月1日に解散を表明したピンク・レディーは、1981年3月31日、東京・後楽園球場の解散コンサートで、デビューから4年7か月の活動を終えた。3年前にキャンディーズが解散コンサートを開いたのと同じ球場だった。当日はみぞれ交じりの冷たい雨で、2人はずぶぬれになった。公式のライブ盤『さよならピンク・レディー』は花火の音で始まり、初期のシングルのB面の曲をつないだメドレー、「カメレオン・アーミー」などのヒット曲、最後のシングル「OH!」、「グッドバイ・ソング」と続く。泣きながら抱き合う2人は、テレビの尺に収めるためにディレクターに急かされたという。2人はその後、期間を区切った再結成を重ね、2010年に「解散やめ!」を宣言した。この夜に歌った「OH!」は、2026年、未唯mieのデビュー50周年のコンサートでも歌われている。

公演データ
| 公演日 | [1][13][25] |
|---|---|
| 会場 | 後楽園球場(東京) |
| 公演名 | 要確認公演の正式な名前は確かめられていない。資料は「解散コンサート」「さよなら(解散)コンサート」と呼び(うたネット)、公式のライブ盤の題は『さよならピンク・レディー』(CDJournal)。[23][21] |
| 区分 | ラストライブじゃなかった |
| ラストライブになった理由 | 解散 [1][13] |
| 出演 | 未唯mie、増田惠子 [1][13] |
| 観客数 | 要確認公式発表・当日の報道で観客数を確かめられなかった。参考値:Wikipedia日本語版は、主催者発表3万人、消防署関係者の証言で約1万5000人としている(出典は『アサヒグラフ』1981年4月17日号。未確認)。[32] |
| 最後に演奏された曲 | 要確認参考値:公式のライブ盤は「OH!」「グッドバイ・ソング」「螢の光」と続き、ストリングスのメドレー(インストゥルメンタル)で終わる(CDJournal)。Wikipedia日本語版は、アンコール前の最後は「グッド・バイ・ソング」、実際に最後に歌ったのはライブ盤にないレイフ・ギャレットの「ダンスに夢中」としているが、信頼できる出典では確かめられていない。[23][32] |
| 演奏曲数 | 12曲 (一部のみ判明)セットリストを見る ↓ |
| 映像化 | 要確認この公演の映像作品は、現行の公式の商品では確認できなかった。2011年と2023年の映像作品に入っている後楽園球場の映像は1978年7月23日の公演(CDJournal、ビクター)。音源はライブ盤『さよならピンク・レディー』(LP、1994年にCD化、廃盤)。参考:Wikipedia日本語版は、VHS『ピンク・レディーのすべて』に一部が入っているとする(未確認)。[20][18] |
アーティストについて
ピンク・レディーは、ミイ(現在の未唯mie)とケイ(現在の増田惠子)の2人組だ[1][2]。2人は静岡の中学の同級生で[2]、1973年にヤマハのオーディション「チャレンジ・オン・ステージ」に合格し、1974年5月にフォークデュオ「クッキー」を結成した[1]。増田によれば、デビュー前から憧れていたキャンディーズにちなんで、お菓子の名前をつけたという[3]。
1976年、2人は日本テレビの『スター誕生!』の決戦大会でスカウトされ[4]、番組の審査員だった作詞家の阿久悠と作曲家の都倉俊一がデビュー曲を書いた。都倉は著書で、オーディションの2人は飛び抜けた存在ではなかったが、落とす理由もなかったと振り返っている[2]。増田は4月に上京し[5]、2人は8月25日に「ペッパー警部」でビクターからデビューした[1]。土居甫が振り付けた、脚を大きく開く踊りが目を引いた[2]。未唯mieによれば、8月のデビューは新人賞を争うには遅く、すぐにヒットを出す必要があった。「ペッパー警部」は初め100位にも入らず、10月の新宿音楽祭での受賞をきっかけに順位を上げていったという[4]。
仕事は5月の下旬から急に増え、増田の記憶では、睡眠は1日2時間ほどだった。週末はコンサート、学校の休みには全国ツアーが入り、TBSの『8時だョ!全員集合』の生放送にヘリコプターで駆けつけたこともある。売れていると実感したのは4枚目の「渚のシンドバッド」のころで、ロケ先の浜辺で岩のように見えたものが、集まった人の群れだったという[5]。
ビクターのプロフィールによれば、「S・O・S」から「カメレオン・アーミー」まで9曲が続けて1位になり、「ペッパー警部」から「カメレオン・アーミー」までの10曲が続けてミリオンを記録した[1]。オリコンによれば、シングルが1位にいた週は通算63週で、2010年の時点でも歴代1位の記録だった[6]。1977年12月5日に出た「UFO」は1年で約155万枚を売り、グループ最大のヒットになった[7]。日本レコード大賞では、1976年に新人賞、1977年に大衆賞を受け、1978年には「UFO」で大賞に選ばれた[8][7]。
1978年にはラスベガスで公演し[9]、1979年5月には全編英語詞の「Kiss In The Dark」でアメリカでもデビューした[7]。この曲はビルボードで最高37位になり[1]、日本の歌手がアメリカのトップ40に入ったのは、1963年の坂本九「SUKIYAKI」以来だった[10]。
なぜ、これが最後とされたのか
転機として振り返られるのは、1978年の暮れだ。2人はNHK紅白歌合戦への出場を辞退し、代わりに他局で自分たちの特別番組を持った。日本外国特派員協会の会報『Number 1 Shimbun』に書いたチャールズ・ポメロイは、これが惨憺たる結果を招いたとしている[10]。増田惠子によれば、2人が出たチャリティー番組の視聴率は紅白に遠く及ばず、辞退を境に大人たちの見る目が変わった。レコード大賞と紅白の辞退のあとから歯車が外れた感じがあり、自分たちもこれからどうすればいいのか分からなくなって、スタッフも進む方向に迷っていたという[5]。
1979年にアメリカでデビューすると[7]、1980年にはNBCで、2人の名前を冠した1時間のバラエティ番組『Pink Lady and Jeff』が放送された。アメリカの音楽家や俳優とのトークも入る番組だったが[2]、ポメロイによれば短命に終わった[10]。増田は、「Kiss In The Dark」の37位は坂本九以来の成績だったのに、日本のマスコミには失敗と書かれ、つらかったと振り返る。皆の心にすきま風が吹いていき、自分もどんどん追い詰められていった、とも語っている[5]。
日本での流れも変わっていた。文春オンラインによれば、デビュー曲から1979年9月の15枚目のシングル「マンデー・モナリザ・クラブ」までは、「Kiss In The Dark」を除いて、作詞を阿久悠、作曲を都倉俊一が手がけた[7]。増田はディスコ調のこの曲が好きだったが、当時は受けが悪く、歌わせてもらえたのは2週間だけだったという[11]。芸能評論家の宝泉薫は、ピンク・レディーが79年に「急失速」したと書いている[12]。ポメロイも、日本での露出が減ったうえにディスコの人気も下り坂になり、レコードの売り上げは落ちていったとし、のちに試みた大人向けの路線も狙いどおりにはいかなかったと書く[10]。
1980年9月1日、ピンク・レディーは解散を表明した[1][13]。音楽グループの解散の経緯を集めた『バンド臨終図巻』は、主な原因を人気の低下に見ている。同書を紹介した文藝春秋の「本の話」によれば、解散の前から、ミイとケイが解散後にどう芸能の仕事を続けるかが話題にのぼっていた。阿久悠は早めに「葬式」を出そうと提案し、解散を「名前の返上式」と呼んだという[14]。増田も、ブームがいつか終わることは2人とも分かっていたと語っている[5]。
発表から解散までの半年間、2人はテレビへの出演と地方での公演を続けた[14]。1981年3月21日には、これまでのシングルなどを収めたLPのボックス(通称「銀箱」)が出た[15]。そして3月31日、東京・後楽園球場の解散コンサートで、4年7か月の活動を終えた[13][1]。
その後2人は、期間を区切った再結成を4回重ね、2010年には「解散やめ」を宣言して、同じピンク・レディーの名前で活動を続けている[13][1]。このため当サイトでは、この公演を「ラストライブじゃなかった」に分類している。同じ名義で再結成・再始動したものは、この区分に移すのが当サイトのルールだ。
この日について伝えられていること
後楽園球場は、3年前の1978年4月4日に、キャンディーズが解散コンサートを開いた球場だ[16][14]。デビュー前からキャンディーズに憧れていた2人は[3]、その夜、地方公演の合間に楽屋のテレビでそのコンサートを見ていた。未唯mieは2024年、涙を流しながら見ていて、出番が来てもテレビの前を離れたくなかったと語っている[17]。同じ1978年の7月23日には、ピンク・レディー自身もこの球場で「'78ジャンピング・サマー・カーニバル」を開いた[9]。この日の映像が初めて商品になったとき、CDJournalはそれを「後楽園球場7万人コンサート」と紹介している[18]。Re:minderのコラムによれば、3万人の定員はすぐに埋まり、入れなかったファンが詰めかけたため、翌日にも公演を開くことになったと言われているという[19]。
解散の5日前、2人はTBSの『ザ・ベストテン』に出演した[20]。うたネットのコラムによれば、2人はリハーサルの会場から中継で「OH!」を歌い、これがピンク・レディーとして解散前にテレビで歌った最後の機会になったという[21]。「OH!」は、2人の22枚目で最後のシングルだ[9]。
1981年3月31日の東京は雨だった。Re:minderは、みぞれ交じりの雨が降る悪天候の中でコンサートが行われたと書き[19]、本の話も、3月末の寒さの中で雨が降り、2人はずぶぬれになったと伝えている[14]。のちに増田惠子にインタビューした記者も、この公演を「雨の後楽園球場での解散コンサート」と呼んでいる[22]。観客数は、確かめられた資料からは分からない。
この夜の公式のライブ盤『さよならピンク・レディー』は、CDJournalの紹介によれば、花火の音から始まる[23]。1曲目は「星から来た二人」で、続くメドレーには「乾杯お嬢さん」「ピンクの林檎」「パイプの怪人」「逃げろお嬢さん」「レディーX」が並ぶ[23]。どれも、デビュー曲「ペッパー警部」から「UFO」までのシングルのB面に入っていた曲だ[9]。
そのあとに「モンスター」「透明人間」「カメレオン・アーミー」が続く[23]。デビューから10曲続いたミリオン・セラーのうち、最後の3曲にあたる[1][9]。そして、最後のシングル「OH!」が歌われた[23]。
ライブ盤は「OH!」のあと、「グッドバイ・ソング」と、別れの歌として知られる「螢の光」へと進み、最後はストリングスが「ウォンテッド(指名手配)」「カルメン'77」「S・O・S」「ペッパー警部」「サウスポー」をつないだメドレーで終わる[23]。CDJournalはこのアルバムを、4年7か月の活動を振り返る内容だと紹介している。一方で、アメリカで37位になった「Kiss In The Dark」が入っていないことも、同じページのレビューで指摘されている[23]。当日、2人が最後に歌った曲が何だったか、ライブ盤に入っていない曲があったかどうかは、確かめられた資料では確定できなかった。
別れの場面について、本の話は、泣きながら抱き合う2人が、テレビの尺に収めるためにディレクターに急かされたと伝えている[14]。Re:minderも、ディレクターに急かされながら、2人は泣いて「さよなら」を言ったと書いている[19]。ピンク・レディーの4年7か月は、こうしてこの夜で終わった[13]。
この公演が残したもの
解散からまもなく、2人はそれぞれの道を歩き始めた。増田惠子の最初のソロの仕事はドラマで、本人の記憶では7月ごろだった[22]。同じ1981年にはソロ歌手としてデビューし、デビュー曲「すずめ」は40万枚のヒットになった[24]。未唯mieも1981年から「MIE」の名でソロの活動を始めた[25]。
解散コンサートの録音は、LPのライブ盤『さよならピンク・レディー』として残った。本の話によれば、評論家の平岡正明は、このアルバムをピンク・レディーの「憤死」の記録と評したという[14]。1994年12月1日にはCD(VICL-18143)になったが、いまは廃盤だ[23]。
ピンク・レディーの名前は、解散で消えたわけではなかった。1984年5月27日には東京競馬場で再結成コンサートが開かれ[2]、9月2日には渋谷公会堂で『Forever'84 Pink Lady 〜お元気でした?〜』を行った[26]。その後もまわりの求めに応えて再結成し、1984年の「不思議LOVE」、1993年の「2年目のジンクス」、1996年の「PINK EYED SOUL」、2003年の「テレビが来た日」とシングルを出した[27]。再結成はいずれも期間を区切ったもので、ビクターのプロフィールは、なかでも2003年から2005年のツアーが好評だったと書いている[1][13]。
2010年9月1日、解散の表明からちょうど30年のこの日、2人は東京のビクタースタジオで会見を開き、「解散やめ!」を宣言した[13]。会場はデビュー曲を録音したスタジオ302で、2人は銀色の衣装で「ペッパー警部」を歌って現れた[27]。ミイは「ただいまー!」とあいさつし、今回は頼まれたのではなく自分たちで決めたと説明した。ケイは、作詞の阿久悠と振付の土居甫が相次いで亡くなったことに触れ、「私たちを作ってくださった方がいなくなってしまった」と語った[13]。うたまっぷNEWSによれば、このままでは終われないと活動を持ちかけたのは増田で、未唯は前年のマイケル・ジャクソンの死に衝撃を受け、その誘いに応じたという。2人は、これからは「死ぬまでピンク・レディーです」と話した[27]。
これまでの再結成と違い、ソロの活動と並行して、ピンク・レディーとしての活動をずっと続けるという宣言だった[13]。解散からちょうど30年になる2011年3月31日に、都内でライブを開く予定も発表された[13][27]。2人は12月1日にアルバム『INNOVATION』を出し、2011年にはツアーを行った[1]。
2023年には、TBSに残っていた映像を集めたDVD6枚組『Pink Lady Chronicle TBS Special Edition』が出た[28]。解散5日前の『ザ・ベストテン』の出演も、このセットに収められている[20]。
デビュー50周年の2026年には、記念日の8月25日に東京・LINE CUBE SHIBUYAでトリビュート・コンサートが開かれ、翌26日にはトリビュート・アルバムが出た。コンサートにピンク・レディーの2人は出演していない[29]。10月にはNHK BSの『The Covers』が2週続けて特集を組み、2人はそれぞれインタビューで登場した。番組では、トリビュート・コンサートで一青窈が歌った「OH!」も放送された[30]。
9月19日、未唯mieは東京国際フォーラム ホールCで、デビュー50周年とソロ45周年の記念コンサートを開いた[25][31]。第2部の冒頭で「お待たせしました、ピンク・レディーです」とあいさつし、本編を締めくくる「ペッパー警部」の前には、この曲で全てが始まったと語った。アンコールの1曲目は「OH!」だった[31]。増田惠子も、ソロデビュー45周年の記念ライブを開くことが2026年2月に伝えられている[22]。
Re:minderで解散コンサートを振り返った郷ルネは、あの夜を衰退の象徴ではなく「出発の象徴」と見て、あの日の景色を殊更に寂しく振り返る必要はないと書いている[19]。
1981年3月31日、雨の後楽園球場で最後のシングルとして歌われた「OH!」は、45年後、未唯mieのコンサートのアンコールで再び歌われた。
セットリスト
12曲 · 一部のみ判明 要確認[23]本編 アンコール 最後の曲
- 星から来た二人
- 乾杯お嬢さん
- ピンクの林檎
- パイプの怪人
- 逃げろお嬢さん
- レディーX
- モンスター
- 透明人間
- カメレオン・アーミー
- OH!
- グッドバイ・ソング
- 螢の光
- ストリングス・メドレー
もうひとつの終演を読む
グループの幕引きには、それぞれの形があります。
- 活動期間(1976年8月25日〜1981年3月31日)
- 増田惠子がソロ歌手としてデビュー。デビュー曲「すずめ」は40万枚のヒットに。
- 未唯mieが「MIE」の名でソロの活動を始める。
- ラストライブ
- 東京競馬場で再結成コンサート。3年後
- 渋谷公会堂で『Forever’84 Pink Lady 〜お元気でした?〜』。3年後
- 解散コンサートのライブ盤『さよならピンク・レディー』がCDで発売(VICL-18143、のちに廃盤)。13年後
- 期間限定の再結成。2005年までツアーを行う。22年後
- ビクタースタジオで会見し、「解散やめ!」を宣言。ソロと並行して活動を続けると発表。29年後
- アルバム『INNOVATION』発売。2011年にツアー。29年後
- TBSの映像を集めたDVD6枚組『Pink Lady Chronicle TBS Special Edition』発売。解散5日前の『ザ・ベストテン』出演も収録。42年後
- デビュー50周年のトリビュート・コンサート(LINE CUBE SHIBUYA、本人たちは出演せず)。翌日にトリビュート・アルバム発売。45年後
- 未唯mieが東京国際フォーラム ホールCでデビュー50周年・ソロ45周年のコンサート。アンコールで「OH!」を歌う。45年後
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さよならピンク・レディー
CDJournal は解散コンサートを「丸ごと」収めたと紹介するが、収録は9トラック(メドレー2つを含む)で、全編かどうかは確かめられない。もとはLP(本の話)。CDは廃盤(CDJournal)。
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出典
- ピンク・レディー プロフィール — ビクターエンタテインメント
- 安室奈美恵、モー娘。の源流になった…紅白辞退→米国で冠番組という日本初の「歌って踊れるアイドル」の伝説 — PRESIDENT Online(太田省一), 2026年8月1日
- 私が感激したキャンディーズの言葉|増田惠子 — 週刊文春(2024年1月4日・11日号、音部美穂), 2024年1月3日
- ピンク・レディー、『レコ大』『ザ・ベストテン』など秘蔵ライブ映像満載のDVD6枚組BOXリリース — リアルサウンド(編集部), 2023年2月1日
- ピンク・レディー増田惠子「キャンディーズや同世代に助けられた」80年代アイドルたちとの“絶頂期”秘話 — 週刊女性PRIME, 2022年7月31日
- 「解散やめ!」ピンク・レディーが再結成 年内ニューアルバム&来年復活コンサート — ORICON NEWS, 2010年9月1日
- ご存知ですか? 12月5日はピンク・レディーの「UFO」が発売された日です — 文春オンライン(近藤正高), 2017年12月5日
- DYNAMIC DUO — Number 1 Shimbun (Foreign Correspondents' Club of Japan), Charles Pomeroy, 2014年11月
- 増田惠子、名曲ぞろいのソロデビュー45周年記念ライブ開催(2ページ目) — クランクイン!(渡那拳), 2026年2月3日
- 松田聖子でも近藤真彦でもない…ニューミュージック全盛期に“空前のアイドルブーム”を生んだ「元ジャニーズ」とは — 現代ビジネス(宝泉薫), 2026年6月28日
- ピンク・レディー「解散やめ!」30年ぶりに活動再開 — 音楽ナタリー, 2010年9月1日
- 「解散」から「卒業」へ — 本の話(文藝春秋、栗原裕一郎), 2016年12月28日
- PINK LADY Disc-1(VICL-61361~3) — ビクターエンタテインメント, 2004年3月24日
- 改装した東京ドームだけど… 音楽的には「後楽園時代からタイガース(沢田研二)の本拠地」だった?〈球場コンサートの元祖〉 — Number Web(スージー鈴木), 2022年3月3日
- 「キャンさん」と「ピンクちゃん」未唯mieと伊藤蘭の知られざる絆 会食も実現、水谷豊も同席!70年代の舞台裏 — デイリースポーツ(よろず~ニュース、北村泰介), 2024年12月17日
- ピンク・レディー、伝説のライヴ映像が初商品化! — CDJournal, 2011年8月2日
- 小雨の中でのさよなら… ピンク・レディー解散 — Re:minder(郷ルネ), 2023年3月31日
- ピンク・レディー、アイドルシーンの原点としての存在 秘蔵映像で振り返る世代を超える人気 — リアルサウンド(榑林史章), 2023年3月31日
- ザ・ベストテン タイムマシン(1978年2月2日) — うたネット, 2017年1月
- 増田惠子、名曲ぞろいのソロデビュー45周年記念ライブ開催 中島みゆき「慕情」カバーは「夫へのラブレターのつもりで歌いたい」 — クランクイン!(渡那拳), 2026年2月3日
- ピンク・レディー / さよならピンク・レディー [廃盤] — CDJournal
- 阿川佐和子のこの人に会いたい ゲスト・増田惠子 — 週刊文春(2024年7月11日号), 2024年7月5日
- 未唯 mie DEBUT 50th & SOLO 45th Anniversary Celebration 開催決定(ニュースリリース) — キョードーメディアス(共同通信PRワイヤー), 2026年3月5日
- 田園コロシアムでの伝説のステージ(初商品化)を含む 貴重なライブ映像のトレーラーを公開 — ビクターエンタテインメント, 2023年3月10日
- ピンク・レディー「解散やめ!」宣言。突然の解散宣言からちょうど30年目のこの日、緊急発表! — うたまっぷNEWS, 2010年9月2日
- 4月19日(水) DVD6枚組BOX『Pink Lady Chronicle TBS Special Edition』の発売が決定 — ビクターエンタテインメント, 2023年2月1日
- デビュー50周年トリビュート・アルバム発売&トリビュート・コンサート開催決定! — ビクターエンタテインメント, 2026年5月29日
- 『The Covers』2週連続ピンク・レディーデビュー50周年SP!未唯mie&増田惠子のインタビュー公開&森高千里らによる名曲カバーOA — THE FIRST TIMES, 2026年9月29日
- 未唯mie、進化し続ける輝かしいオーラ ソロ曲からピンク・レディーの名曲まで、惜しみなく披露したダブルアニバーサリー公演 — リアルサウンド(田中久勝), 2026年9月28日
- ピンク・レディー — Wikipedia日本語版
- 楽天市場「VIBL-1085」検索結果 — 楽天市場
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